50年前ヒッチハイクの旅で訪問した国の1つ、ノルウェーに半世紀ぶりに訪問しました。オスロより南に位置するサンデフィヨルドという町で、当時、お世話になった新聞記者の方にお礼をしたく訪ねました。
50年前のあの時代、女性や欧米人が優先され、なかなかヒッチハイクで拾ってくれず苦労の日々でした。そこで、自分のことを地元に人に知ってもらおうと、サンデフィヨルドの新聞社を訪ね、記事に載せてほしいとお願いし、幸運にも掲載していただけました。記事のおかげで、私のことを知った地元の皆さんの車が私に殺到してきました。ノルウェーの旅は大変うまく行き、忘れられない出来事となりました。
以前より、当時、記事を書いてくれた記者の方に直接お礼を伝えたいと願っていました。今回の北欧訪問を機に、新聞社宛にこれまでの経緯と訪問日をメールで送り、一縷の望みを期待して新聞社を訪問しました。すると、苦労して当時の新聞記者を突き止めてくれました。残念ながら、お会いすることはできませんでしたが、幸運にも電話でお話することが出来ました。また、50年前と同じ場所で写真撮影をしていただき、50年前の写真と共に新聞に掲載されました。これにより、私の一つのストーリー作りが、50年の時を経て完結しました。
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【記事内容】
ほぼ50年間が経って、名前を知らないジャーナリストに感謝をしたい、大坂氏は1965年にもここに立っていた
大坂靖彦氏(70歳)はおよそ50年前の、サンデフィヨルドでの出会いを決して忘れてはいない。
先日、サンデフィヨルド・ブラッド(本紙)にドイツ語で書かれた丁寧なメールが届いた。送信者は東京に住んでいる男性だ。1965年7月19日に撮影した、サンデフィヨルド・ブラッド紙の捕鯨記念碑の前に立つ若いアジア人男性が写っている新聞写真の切り抜きがメールに添付されていた。写真に写っているのは若い日本人の経済学部の学生で、彼にはお金がほとんどなく、小さなリュックだけを持って2つの大陸を旅した。彼はアルバイトをしながら野宿をし、ユースホステルやホームステイをして北極を目指した。
手短に言えば、大坂靖彦氏は旅で多くの人に出会ったが、特に印象に残っている、あるジャーナリストにお礼を言うことを望んでいた。
「当時の人は見た目が違う外国人に違和感を覚えていて、ヒッチハイクで車に乗せてもらうことは大変難しかった。私はサンデフィヨルド・ブラッドを訪問して、記事を書いてもらった。それがその後のすべてを変えた。私は有名人になって、どこに行っても車に乗せてもらえるようになった」と大坂氏は言う。今週、彼は妻と一緒に本紙の編集部を訪れた。
1965年の記事に関して、これは「ベアンハード」によって書かれたものだった。私たちは探偵のように追求し、ペンネームの本人が誰なのかを何とか突き止めた。現在オスロ大学で名が通っているベアント・ハグヴェット教授だった。
「面白いですね。私はあの日本人をよく覚えている」とハグヴェット氏は言う。彼は1960年代の夏休みに4年連続で本紙でアルバイトをした。
ハグヴェット氏と大坂氏は水曜日に電話で話をし、これからも連絡を取り合う予定だ。
【写真】(左より)
1)当時の記事: 1965年7月19日(月)サンデフィヨルド・ブラッド紙の切り抜き。
2)当時のジャーナリスト:ペンネーム「ベアンハード」のべアント・ハグヴェット教授。
3)まったく同じ場所で:感動した大坂靖彦氏は49年前と同じ姿勢で同じ場所に立つ。その後、大坂氏はビジネスで成功し、日本とドイツの文化交流での尽力でドイツ勲章を受けた。